【エッセイ007】極私的恋愛論「サブカルのジレンマと恋愛エコーチャンバー」

・はじめに

今年も残すところ後3か月となってしまった。年末にかけてこれから様々なイベントが私のスケジュール帖を埋めているが、唯一毎年空白となっている日付がある。それは12月24日と25日である。キリスト教圏とは違った意味合いを持つ日本のクリスマス。幼い頃はサンタクロース(両親)からもらえるプレゼントにワクワクしたり、公民館で開かれた子供会のクリスマスパーティーでプレゼント交換にクリスマスケーキを楽しんだものだった。しかし時は経ち思春期を迎えるとクリスマスはそれまでのイメージが大きく変化することになった。それまでは友人や家族とのイベントだったのが恋人と過ごすイベントへ様変わりしてしまったのだ。残念なことに私はこれまで愛しい人とこの日を過ごすことはなく、30を過ぎてからは毎年クリスマスはストリップ劇場へ赴くのが恒例となってしまった。

さて、余談はここまでにして今回は「極私的恋愛論」と称して私個人の偏執的な恋愛論を論じていこうと思う。ちなみにこのタイトルは佐々木誠監督作品「マイノリティとセックスに関する極私的恋愛映画」からの丸パクリである事をはじめに断っておく。

・サブカルとは?

それでは本題に移っていこう。まずは「サブカルのジレンマ」について論じていく前に、この恋愛論を補強する為に私が定義する「サブカル」について簡単に説明していこう。「サブカル」とは一般的に「サブカルチャー」の略称であると認識されている。しかしここでは一般的に認知されている「サブカル」ではなく「物事に対して冷笑性、批評性を持つ姿勢や考え方」という意味で「サブカル」を定義していく。それらサブカルを表する論者をいわゆる「サブカル系」と称して区別していこうと思うので留意頂きたい。

・サブカルのジレンマ

「サブカルのジレンマ」については、私の個人誌である「日々是サブカル 第一集」においても中心に取り扱っておりコチラで内容を公開しているので合わせて読んでいただきたい。

「サブカルのジレンマ」とはサブカル系同士の恋愛を想定した際に起こりえる心理的現象を表したもので、これもまた「ハリネズミのジレンマ」からの丸パクリだ。パクリ元である「ハリネズミのジレンマ」は「暖を取るためにお互いの身体を寄せ合うも互いの針で傷をつけてしまう」という人間同士の親密性や距離感についてを表したものである。では「サブカルのジレンマ」も同様に「サブカル系同士が近づこうとしても身を寄せ合うほどに傷つけあってしまう」という事だ。それはハリネズミと同様にサブカル系にも針があるという事を指している。サブカル系の基本習性として「人間観察」がある。「人間観察」とは聞こえが良いものの観察対象の発言や行動を観察・分析し冷笑したり評論されるわけである。なんと気持ちの悪いものであろうか。これがサブカルの針の一つである。サブカル系は一般から逸脱した人を特に好んで摂取しようと近づいてくる。その好奇心というものも強烈な毒針として観察対象へと向けられるのだ。

では、サブカル系である貴方がもし異性のサブカル系に興味を持たれ近づいてきたとしよう。そこには恋愛感情よりもサブカル的な好奇心が支配的であることが推測される。好奇心とは一見健全である様に思われるが、冷笑性や批評性を含む好奇心といものは質が悪い。そういった意味を含む好奇心を知っている貴方にとっては相当なストレスを感じる事だろう。結局はサブカル系同士が近づいたとしても互いが観察対象となりそれがストレスとなって疲弊し、いつしかは破綻してしまう可能性がある。それをも乗り越えていくならば血を流すことも覚悟する必要があるのだ。

・恋愛エコーチャンバー

血を流す覚悟を持ち、異性のサブカル系へと近づいた貴方には更なる障害が目の前をたちだかることになるだろう。それは「恋愛エコーチャンバー」と呼ばれる現象だ。互いの針で傷つけあいながらも育んだ愛は尊いものである。きっと試練を乗り越えた貴方たちは充実したサブカルライフを過ごす事だろう。しかしここで大きな問題として「恋愛エコーチャンバー」が徐々に表面化してくるのだ。これも私が「エコーチャンバー」から勝手に発展させた概念であるため、元となった「エコーチャンバー」について説明していこう。この概念は「主にインターネット上の掲示板やSNSで見られるもので趣味趣向やイデオロギーが同じ傾向のコミュニティに属し、そのコミュニティ内で発言した意見や主張が不特定多数の人間に評価、肯定されることで、例えその主張が一般的な考え方から逸脱したものであってもそれが正しいと誤認してしまう現象」を指す。こういった現象は単にインターネット上に限らず、あらゆる団体、組織、グループで発生しやすくこれらの最小単位としては家族や夫婦、恋人といったところだろうか。属するコミュニティが狭く閉じた社会であるほど一度発振した音は響きあい、いつしかその音は歪んでしまうのだ。しかしながら恋愛が盛り上がるのは彼らの間にエコーチャンバーが発現するからである。「恋は盲目」という言葉からもエコーチャンバーによって歪められた虚像にお互いが共依存してしまう事でパラノイアが生まれた結果、独自の世界や価値観が二人の間に生じ、行き着く先は犯罪や心中といった端からは到底理解出来ないような行動へとつながってしまうのだ。

特にそれがサブカルを愛好する者同士であった場合、恋愛エコーチャンバーは大きく作用してしまう。元々、他人から理解されにくい活動や主張をするサブカル系は孤独である場合が多い。一般社会でサブカルは石やブロックの下に隠れている虫と同じ生活を送らなければならない。そんな中、考えや価値観を共有できる異性が現れたとしたらどうだろうか。まさにエコーチャンバーが発生する事は避けられないだろう。いやそもそも私はエコーチャンバー自体を否定しているわけではない。”サブカル系同士の”エコーチャンバーが問題なのである。

前項でサブカルを「批評性を持つ姿勢」と定義づけた。では恋愛エコーチャンバーに陥った二人は果たして批評性を有しているのだろうか。残念なことに恋人として重要な要因でとなるエコーチャンバーはサブカル系としての姿勢を破綻させてしまう恐れがあるのだ。もちろんこれは極端な例であるがその可能性を少しでも否定できない以上は慎重になってしまう所であろう。

・おわりに

さて、ここまで私の極私的恋愛論にお付き合いいただいた読者諸君には感謝しかない。あーだこーだと駄文を垂れ流していたが、つまるところ私は適当な理由をつけて奥手になっている恋愛クソザコサブカル糞野郎なのである。このエッセイを書いている間も何度も身につまされる思いからから筆を止めて頭を抱えてしまった。そんな私に果たしてサブカルを一緒に楽しめる恋人が出来るのだろうか。このエッセイを読んで興味を持った貴方からの連絡を待っています。

さしみ

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