
・はじめに
私はおっぱいが好きだ。双丘の曲線美に象徴的2つの乳頭は神が作りたもうたまごう事なき芸術作品であろう。とはいえなかなか拝めない状況である現在、スマホやパソコンなどでいくらでも幾つでも閲覧は可能であるものの、残るものは虚しさのみ。ならば風俗に行けば見て触れる事も可能であるが、それではあまりに畏れ多い。ーとなると、残るはそうストリップ劇場である。
今や性風俗というより一つのサブカルチャーになりつつある「ストリップ」。性的興奮ではなく芸術的な身体表現の場となった劇場で垣間見るストリップの魅力について語ってみた。
・女性性とは
女性の裸と言うものは人類の有史以来、言葉や絵、彫刻、歌、詩など様々な形でその魅力を讃えられてきた。キリスト教の聖書では裸に対する羞恥心は知恵の実を食べたことによって発現したものと記している。確かになぜ、こうまで女性の裸というのは官能的なのだろうか。それは人間の心理に根ざした性の象徴というのが関係してくる。「女性の女性性」、言い換えれば「女性を女性としてたらしめるもの」とでもいうのだろうか。女性の象徴とはズバリ、身体全体なのである。男性と女性の体つきを比較してみれば一目瞭然であろう。女性の方が曲線的な形状が多く、柔らかい印象だ。かつての裸婦象はその曲線を女性らしさと富の象徴として描き、手塚治虫の描く女性も曲線に富んだ母性的なスタイルが印象的だ。もしかしたら、なかよひモグたんの「モグ波」やタモリはたるのタッチもそれを極端にデフォルメした結果なのかもしれない。このようにこれまでの女性性の表現とは男性の目線が多くなる。しかし女性自らが女性性を最大限に表現できるのが「ストリップ」なのだ。

・ストリップの歴史
ストリップの歴史は諸説あるものの、どれも戦後すぐに興行が始まったとされている。ストリップ黎明期では皆が想像するような音楽に合わせて衣服を脱衣していくものではない。これ以前はただ何もせずに裸で立ち尽くすのが主流であったとされている。その後、曲が流され踊り子はその曲に合わせて脱衣を行う用になり、そのうちにストーリー性が加味されミュージカル仕立てへと変化することになる。現代ではプロジェクションマッピングを駆使し、それまでの低俗なショーからエンターテインメントとして十分成り立つ程のクオリティとなっているのだ。
・ストリップの概要
懸命な読者諸君は既にストリップ劇場へ何度も足を運んでいるだろうから、説明は不要なのかもしれないが簡単に概要を説明していこう。
いくつか重複するところがあるがご容赦願いたい。先述したが、ストリップ劇場とは踊り子が音楽に合わせて脱衣していき、乳房や女性器を観客へ披露するというショーである。もちろん18歳未満の入場は禁止となっているので、入場の際には身分証の持参を忘れずに。会場の基本レイアウトとして、客席前方に「本舞台」、本舞台から客席へ伸びる「花道」、そして会場の中心部に「回転盆」がある。通常、1ステージ毎にメインとなる踊り子が1人ないしは複数人で踊り、1曲目が終わると花道を通って回転盆の上で脱衣を始める(演出によって順序はまちまち)。音楽がメロウな曲調へと切り替わると回転盆が回りはじめ、踊り子が自らの裸体をくねらせながら一枚一枚と衣服を脱いでいく。白い肌が眼前に現れるや否や女性器が顕になる。回転盆は満遍なく踊り子を、女性器を客へ見せつけるのに効果的な舞台装置なのである。
これを1ステージとし、場所によってはフィナーレとして一度袖にはけた後に再度登場したり、チェキ撮影会が行われる場合もある。1ステージは15分から20分ほどで、踊り子の人数によって1時間から3時間ほどで1ステージが終了する。新型コロナウィルス以前は、映画館の様な入れ替え制を採用しておらず、一度入ってしまえば閉店まで楽しむことが可能であった。
近年では女性客が増加している。女性性の表現の場として多くの女性が魅了されているのだろう。劇場もそれに対応すべく優先席なども設けることが多くなってきたし、カップルや女性1人で観覧する場合もよく見受けられる。それでも不安であれば是非私に声をかけていただきたい。下心なんてものは私の辞書には存在しないのだから安心安全で満足いくストリップ体験をお約束しよう。

・暗黙のルール
こんな仰々しいタイトルをつけると一気にハードルが上がってしまうだろうが、そう大した話ではないので安心していただきたい。ここでいう暗黙のルールとは「踊り子が回転盆で女性器を顕にした瞬間に拍手をする。」というシンプルなものである。なぜ、女性器に対して拍手をするのだろうか。そこの理由については判明することはついぞ叶わなかったが、女性器を前にして観音様と手を合わせる人がいると聞いたことがあるので、女性器を神物と捉え、拍手(はくしゅ)ではなく柏手(かしわで)を打っているのかもしれない。大きな劇場では、常連や玄人さんのタイミングに合わせて拍手をすればいいのだが、鄙びた温泉街の劇場では私を入れて3人という地獄の…いや独占的な空間の場合はそれまでの経験が試されることになるのでステージを一つ上げたい人は挑戦してみてほしい。
・タンバリンとリボン、ファン文化の魅力。
暗黙のルールに加えて長い歴史の中で独自のファン文化と言うものが培ってきたのもストリップの魅力の一つであろう。初めてストリップを観覧した人がよく勘違いするのはリボンの存在ではないだろうか。リボンとは踊り子が女性器を晒したタイミングで何処からともなく降り注ぐリボンのことである。そのタイミングと踊り子に当たるか当たらないか絶妙な距離で引き込む職人芸に劇場関係者と思ってしまうかも知れないが、実はこれはファンによる演出なのである。1ステージに何十も使用するリボンは事前に準備され、見事なタイミングで踊り子と女性器を彩るのだ。タンバリンもリボンと同様に踊り子や会場を盛り上げる重要なポジションだ。読者諸君にもカラオケでタンバリンを勢いに任せて叩き狂う友人に辟易とした経験をしたことだろう。ストリップのリズム隊とも言うべきタンバリンは、雰囲気を壊すことなく盛り上げる職人技のなしえるものなのだ。ストリップ劇場へ足を運んだ際には、これらファン文化に注目するのも一興である。
・紫とピンクの照明の力
カラーセラピーやパーソナルカラーという言葉が一時流行ってた。細野不二彦「ギャラリーフェイク」でも、カラーセラピーの観点から物語が展開したのも記憶している。人間と色とは心理学的に密接に関係があるそうだ。確かにどこぞの黄色いロボットの会社へ見学へ行った時、どこを見渡しても黄色黄色黄色で目がクラクラした経験がある。カラーセラピー的な要素から黄色とは期待や希望というポジティブなものから、不安、神経質といったネガティブなイメージが含まれているという。まぁこのカラーセラピーも胡散臭いんだけど。

私はある日、ストリップというショーでは照明の色が非常に重要であることに気づいた。回転盆の上にいる踊り子たちの肌がまるで粉つきそうなほど白く、そしてきめ細やかに映り、それでいて少し紅潮している様に見えるのだ。その印象はどの踊り子でも同じであった。もちろん、普段からスキンケアには人一倍気を遣っている事だろう。しかし逆に言ってしまえばどの踊り子も同じ様な質感を感じるのだ。その正体を探るべく辺りを見渡すとあるものが目に入ってきた。それがピンク色の照明である。伊丹十三「マルサの女」で、山崎努が宮本信子に桜色のシーツを被せるシーンがある。その時の台詞に「この桜色は日本の女性を最も美しく見せる色だよ」というものがあった。ピンク色の照明を裸体へ当てると、身体が紅潮するように見える。少し淫靡な印象を受けるだろう。そして紫色の照明は肌を透き通った白色へと魅せる。この組み合わせによって、なんとも隠微で美しいあの白くも紅潮した肌色へと映るのだろう。この照明技術はもっと色々なところで活用されるべきであろう。ラブホテルの照明や自宅照明に使えば燃え上がること間違いないだろう。コスプレの写真でも有効的かもしれない。
・人間観察としてのストリップ
最後にサブカル糞野郎らしいトピックで締めたい。私がストリップ劇場へ行くのは、裸を見るというより、それを見ているおじさん達を見るのが目的と言っても過言ではないのだ。かぶりつき席で食い入るように女性器へ熱い視線を向けるおじさんや、遠巻きに腕を組みながら睨みつけるように女性器を見つめるおじさん。曲のテンポに合ってないが、頑張って拍手をするおじさんなどなど、人間観察好き…いや、おじさん好きにはたまらない空間なのだ。私は去年と一昨年の2年連続でクリスマスイブをストリップ劇場で過ごした。それは彼女がいない事に対する自虐ネタであると同時に、クリスマスイブにストリップ劇場へ足を運ぶ人間はどんな人なのだろうか、というサブカル的な視点も含んでいるのだ。やはりクリスマスイブのストリップ劇場は百戦錬磨の手練れが集まっている。基本的に踊り子の熱心なファンが多く、クリスマスということでサンタ衣装での登場したり、チェキを撮って楽しんでいた。ファン同士の交流も盛んで、少し疎外感を感じたのは内緒である。

・終わりに
あーだこーだ講釈を垂れたが、結局は実際に行ってみるべしということだ。エロ目的で行くと案外肩透かしかもしれない、逆にショーとしてみれば十二分に楽しめるし、女性の美しさと言うものを再認識させてくれるだろう。コロナも落ち着き、昔ながらの温泉街へ旅行した際には浴衣姿で下駄を鳴らしながら足を運んでみてはいかがだろう。