『ドキュメンタリーと虚実皮膜』前編「愛について語るときにイケダの語ること」の語ること

1.導入

連休の過ごし方によって人となりを感じ取ることができる。特に今年は新型コロナによる緊急事態宣言や蔓延防止措置法が発令されることがなかったので、各々の連休を過ごすことが出来たのではないだろうか。朝遅くまで眠る人、いつも同じ時間に起きる人、旅行に出かける人、運動をする人、そして連休に関係なく仕事をする人。多種多様な過ごし方があるなか、私はゴールデンウィークはサブカル三昧で過ごした。例えばサークルとして参加したCOMITIA140の新刊製作を始め、Twitterのフォロワーさんと神保町で古本屋を巡ったり、中野ブロードウェイや秋葉原へ出かけたり、そして映画を観たりと中々な忙しさであった。そんな濃い休日の中でも下北沢で上映された2本の映画について今回は話をしていきたい。

しかしながら、これら2本の映画は大きな衝撃を受けた作品である。初めて本作を見てから4ヶ月。何度も自分が感じた衝撃を言語化しようと試みた。しかし脳内を散乱する様々な感情と、自覚のない無意識の感情が入り乱れるだけであった。そんな中、再度本作と向き合える機会が訪れたのだ。不安が胸を圧縮し身が縮んでしまいそうである。しかし、もう一度立ち向かっていきたいと思い筆をとった次第である。

今回は前編と評して1作品目「愛について語るときにイケダの語ること」について簡単に紹介していこう。

予定では次回は「マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画」を紹介し、最後に2作を通した私の思いを言葉として読者諸君に伝えていきたい。

2.出会いと再会

5月2日。天気は見事な五月晴れ。午前から昼過ぎにかけて神保町を回っていた私は下北沢の快活クラブにいた。数日後に開催するCOMITIA140の原稿作成が遅々として進まず、篭っていたのだ。しかし古本屋や古着屋そしてレコード屋と、私にとって欲望の街であるこの下北沢で、なぜわざわざ引きこもっているのか。それは今夜上映される映画が目的なのである。その映画のタイトルは「愛について語るときにイケダの語ること」と「マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画」の2本だ。COMITIAの開催も近い中、未だに原稿と同人誌の製作が進まない状況であるにも関わらず、遊び呆けていれば修羅場になることは必至である。しかし私はこの2本の映画を観なければならないのだ。それは「愛について語るときにイケダの語ること(以下、愛イケ)」との出会いから話をしなければならない。

それは今年の1月半ばまで遡る。近年、映画に対する情熱が嘘のように引いてしまっていた私だが、本作に興味を抱き、横浜の繁華街、伊勢佐木町のジャック&ベティというミニシアターへと足を運んだ。当時、映画館で観た最後の映画はなんと「100日後に死ぬワニ」という、まさにサブカル糞野郎らしい状態であった。そんな私がなぜ本作に興味を持ったのか。誤解を恐れずに言うならば、本作が「障害者の性」を描いていると聞いたからだ。正直に言えば興味本位。下衆な知的好奇心を持っていたのは言うまでもない。しかし、スクリーンに映し出された池田英彦の姿には、彼の人生そのものが描かれていたのだ。約60分という短い上映時間にも関わらず、彼のユーモラスで飄々とした性格と、共同制作をした真野勝成とのホモソーシャル的なやりとり、そして彼の性と生そのものに魅了されてしまったのだ。本作の第一印象は「衝撃」だった。それは面白いとかつまらないと言う言語の枠外にある作品で、私はただただ打ち震えるしか無かった。上映終了後、半ば放心状態のままパンフレットを購入し、ふらふらと夜の伊勢佐木町を歩いて帰宅の途についた。それから3日間は私の頭の中で映像やセリフを反芻し続け、メモにも色々書き殴ったものの、どれも自分が受けた衝撃を言葉にできておらず、消化しきれない感情が腹の中を這いずり回る状態が続き、胸焼けのようなものに襲われてしまったのだ。いっそ「愛イケ」の存在を忘れてしまおうとさえも思ったほどだ。

やっとのことで「愛イケ」の存在を頭の片隅に追いやり、心の均衡を得られた頃には既に2月を終えようとしていたのだった。それからさらに1ヶ月経った4月。「愛イケ」の配信とリバイバル上映のニュースが飛び込んできた。しかも「愛イケ」と共に「マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画(以下、極私的恋愛映画)」が並映されてるとのことだ。「極私的恋愛映画」は「愛イケ」内にも登場する。この作品は池田と真野にとって重要な作品で、彼らが撮影を行なっていた2015年に公開された作品である。監督は「愛イケ」の編集を担当した佐々木誠。彼と2人は「極私的恋愛映画」の公開時に出会い、意気投合し、池田の死後、真野が佐々木へ映像を託したのだ。タイトルからも伺えるように「極私的恋愛映画」は障害者の性について言及した作品である。そして「愛イケ」との共通するテーマが「虚実皮膜」なのだ。これはまた後ほどゆっくりと話していきたい。リバイバル上映の報を聞いた私にとって、これは渡りに船であった。それまで蓋をしていた本作への想いにもう一度向き合える絶好のチャンスなのだ。しかも兄弟作品と言っても良い「極私的恋愛映画」の併映の上、トークショーもあるという。はやる気持ちを抑えつつ、私はすぐにチケットの予約をしたのだった。

3.「愛について語るときにイケダの語ること」

さて、やっと1作品目「愛イケ」こと「愛について語るときにイケダの語ること」に入っていこう。本作の企画、監督、撮影、主演を務めたのはタイトルにもあるイケダこと「池田英彦」である。彼は神奈川県相模原市出身で、職業は監督でも俳優でもない、ただの市役所職員である。しかし人と違うところは2つある。それは彼が四肢軟骨無形成症、所謂小人症であり、末期がんに冒され余命を宣告されている事くらい。そんな彼が自らカメラを持ち、自分自身を撮影し始めたのは2013年のことだった。イケダは医者からスキルス性胃がんステージ4と、このまま治療を行われければ余命は2ヶ月という宣告を受けた。「もし余命○○と言われたらどう過ごすか」と、読者諸君も一度は考えたことはあるだろう。私も御多分に漏れることなく、よく考える(笑)。セオリーは「食べたいものをたくさん食べる」や「好きな人(家族)とできる限り一緒に過ごす」だろうか。私は猫のように突然姿を消し、誰もいない場所で大声で泣き喚きながら死んでいきたい。

ではイケダはどうだろうか。彼は生命保険の一時金を軍資金に風俗へ通い始め、そしてセックスの様子を撮影し始めたのだった。徐々に蓄積されていく映像データに、いつしか映画を撮りたいという感情が芽生え始めた。そこで20年の友人で脚本家である真野勝成に声をかけて、イケダが企画、監督、主演を務める形で話は進んでいくことになったのだ。

「イケダの死をもってクランクアップ」

2015年末、イケダは膨大な映像データを真野へと託し、この世を去った。

そして真野は「マイノリティとセックスに関する極私的恋愛映画」や「インナーヴィジョン」を手がけた映画監督佐々木誠に編集を依頼し、2021年末に渋谷アップリンクで公開することになったのだ。

4.登場人物

ここで一旦、登場人物について紹介していこう。

・池田英彦:1974年生まれ2015年没、享年42歳。相模原市役所に勤めていたが、2013年にスキルス性胃がんのステージ4を宣告され辞職。その後は残りの時間を風俗とハメ撮りに捧げ、友人で脚本家の真野と共に映画撮影を企てる。

・真野勝成:1974年生まれ、現在48歳。職業は脚本家でデスノートや相棒の脚本を務めた。イケダとは大学時代に知り合い、それから20年来の友人関係であった。2015年にイケダからがんと余命宣告を受けたと報告される。自らが撮影してきたそれまでのハメ撮りを元に2人はいつしかある企てを行うのだった。2015年に池田がこの世を去ると、真野は60時間にも及ぶ膨大な映像データを佐々木誠に託した。

・佐々木誠:1975年生まれ、現在47歳。映像ディレクターや監督として活躍している。テレビの現場ではドキュメンタリー作品を手掛ける一方、映画の分野では常に挑戦的な作品を作り出している。代表作である「マイノリティーとセックスに関する、極私的恋愛映画」や「インナーヴィジョン」、そして本作の「愛イケ」では真野から託された映像の編集を担当した。佐々木誠作品に共通するテーマとして「虚実皮膜」があり、イケダや真野が「愛イケ」で描こうとしていたものと類似しており、「極私的恋愛映画」を公開すると彼らはすぐに意気投合したという経緯がある。

・毛利悟巳:1991年生まれ、現在31歳。舞台やCMで活躍するほか「愛イケ」ではイケダの「理想のデート」の相手役として、親交のあった真野にオファーをされて出演している。本作ではイケダと一緒に買い物をし、イケダの家で鍋を作って食べるというシーン加え、イケダに告白をするシーンもあるのだが、イケダの反応にこの映画における虚実皮膜が姿を現し、そして境界線が曖昧になっていく。

5.池田英彦という人間

既に何度も登場しているイケダこと、池田英彦についてもう少し掘り下げていこう。主人公でもあり、監督でもあり、そして遺作となった本作。全ては彼が2013年に末期がんを宣告されたことから始まる。彼は生まれながらにして四肢軟骨無形成症という全国でも患者数が6000人しかいない稀な障害を持っていた。この病気は手足が成長しないため、その見た目から「小人症」とも呼ばれている難病だ。しかしイケダはそんな障害を気にした様子はなく、常に飄々とした態度で過ごしている。しかも鼻筋は通り、少し垂れた目は愛嬌を感じさせるイケメンなのだ。それに加えてセンスの良い服を身に纏いつつ、キックボードで街を疾走する彼の姿は正直言って格好いい。そんなイケダだが妻子はおらず、未だに一人暮らしである。余命宣告を受けてそれまでやったことがない事を求め、風俗へ通い、そしてハメ撮りを始めたのだ。いつしか真野と共に「理想のデート」の撮影を思いつく。

理想のデートの相手として女優「毛利悟巳」をブッキングし、イケダとの疑似恋愛の様子を撮影していく。イケダと毛利は近所のスーパーで食材を買い込み、イケダの家で鍋をする。毛利は髪を結いエプロンを着け、鍋の下準備をする。イケダは最初は手持ち無沙汰で落ち着かない様子だったが、いつしか緊張は解けてスマホをいじる。鍋を一通り堪能し、映画を鑑賞して時間は過ぎる。そんな他愛のない映像が流れていく。すると毛利は突然、DVDを止めるとそれまでよりも一層緊張した面持ちでイケダに向かい合う。彼女はイケダに向かって言葉絞り出すように「こんな私でよかったら付き合ってください」告白をするのだった。

イケダの答えは明確では無かったものの、遠回しに彼女を拒絶してしまった。

それまで真野とニヤつきながら映画にかこつけて恋愛できないかと話していた様子からは想像だに出来ない事が私の前で起きたのだ。私の気持ちはスクリーンの中の毛利と同じだったろう。映像の中のイケダは真面目な表情で少し俯き加減で告白を受け、答えていたのだ。

本編は毛利が家を後にし、居眠りをしているイケダの隣で真野がその映像を見ているシーンへ移る。真野は呆れながら「なんで悟巳ちゃんの事を振ったのか」と問いただすとイケダは「素直なイケダだとああなる」と答えた。

イケダは自ら作り出そうとした「理想のデート」という虚構を破ってしまったのだ。しかしそこにはイケダの本心が垣間見えている。毛利の告白を受けてイケダは「ドキッとするね。イエスって言いんたいんだけど、本当にイエスと言っていいのか良くわからない。自分のことを色々考えるといいのかなってのもあるし、対女性という話になると相手あってのことだから」と答える。真野はその発言から、イケダが抱える問題の根深さを理解している様子だった。

イケダが抱える問題とは何だったのだろうか。

6.イケダの死

2015年10月25日。イケダは死んだ。

映像ではイケダの命日となる5日前の姿が窺える。それまでハンサムだったイケダの顔は頬こけてしまい、肌の色は土気色。誰が見ても死の直前とはっきりとわかる風貌になってしまった。しかしモルヒネによる効果か、舌足らずな話し方をしつつも「チンコが勃たない」などといつものご様子。そんな状況のイケダを見ても私は何も悲壮感を抱かず、自然と笑いが込み上げてきてしまった。これがイケダの魅力なのだ。

2022年。イケダが死んで7年が経つ。それでも多くの人に「愛イケ」が観られ、多くの人の心に彼の人懐っこい顔が残り、多くの人がイケダについて話している。なぜか私はイケダに嫉妬の気持ちを抱いた。死してなお、イケダは多くの人に影響を与えていく人間性に嫉妬したのだ。私が「死」を恐るのは「無」に対する恐怖である。それは意識の無を想像できないという未知に対する恐怖と、自分が忘れ去られてしまうという恐怖があるからだ。誰しもが平等に訪れる「死」。人類はそれを克服すべく「宗教」を発明し、科学を発展させてきた。マクロの視点で見ればそうやって人類は連続性を獲得してきたのだが、ミクロの視点では「死」または「無」というのは「連続性の喪失」である。今こうやって文章を書いているのも根底にはこういった考えが根底にあるのかもしれない。

イケダは死んだ。

しかしイケダの連続性は今もなお失われていない。

それが私が彼に嫉妬した理由だろう。

それが私が「愛について語るときにイケダの語ること」に衝撃を受けた一つの理由だろう。

イケダはまだ生きている。

7.結言

私は拘りがある。それは「自分で答えに辿り着く事」である。例え紀元前のローマ時代、偉大な哲学者が既に導き出した答えであろうが、誰もが分かる他愛のない事でも、自分が感じ、気になった事象に対して自分で答えを導き出したいのだ。しかしそれはとてつもない労力と時間がかかってしまう。

何度も反芻して、何度も悩んで、何度も何度もー

そうやってたどり着いた答えは得てしてシンプルなものである。あまりに呆気ない答えに拍子抜けすることも少なくない。本記事からも悩みに悩んで導き出そうとする姿勢が窺えるだろう。そして今回辿りついた答えは「憧れ」と「嫉妬」だった。これは次回以降の記事にも大きく関わってくるかもしれない。もしかしたら全く別の答えに辿り着くかもしれない。しかしこの過程が楽しいのだ。

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