いつもブログを拝読いただき心より感謝申し上げます。手前味噌だが、5月5日(木)に東京ビッグサイトで開催される「COMITIA140」に参加することになった。スペースは「え-17b」、サークル名は「隙間屋古書店」である。当日は古書店ガイドブック「マンガヨミアルキ 東海地方編」と、私が日々サブカルについて思索を巡らせメモをした散文をまとめたエッシ「日々是サブカル」の第2巻を頒布予定であるので、興味のある方は会場で(感染症対策の上)私と握手。
さて今回は「日々是サブカル」の新刊頒布を記念して、1巻の内容をブログにて公開する。1巻ではサブカルの定義からサブカルを愛するが故に伴侶を見つけられないジレンマについて語っている。最後まで読んでもらえると幸いだ。
●はじめに
はじめに、数あるサークルの中から本書を手に取っていただき、心より感謝を申し上げたい。まずは自己紹介をしよう。私は何処にでもいる所謂サブカル糞野郎である。古本をはじめレコードやクラシックカメラ、ヴィンテージオーディオ機器などを蒐集する好事家だ。サブカルチャーの興味は70年代から90年代のものが中心で、私が生まれる以前の事象を日々追い続けている。以前は絶版漫画を好んで全国の古本屋を巡っていたが、新たに人文系や思想、文化人類学的な本に手を伸ばし知見を広げている。最近はこれらの読書体験を基に自分の思考を垂れ流す自慰的なブログ「隙間屋古書店」を運営しているので、本書を読んで興味を抱いた方は是非アクセス願いたい。
本書では日々サブカルについて思案を巡らせてきた私
が、30歳という年齢を過ぎ、改めてサブカルとは何かを自問自答し導き出しつつある答えの一部を語っていければと思う。そもそもサブカルとは何か、何故サブカルに魅了されたのか、サブカルの業とは何か。今回はこれらについて自己批判を含めた独り言として雑文を連ねていこうと思うので、最後までお付き合い願いたい。
サブカルを愛し、サブカルに囚われ、サブカルに殺されかけている男の最期を看取る気持ちで読んでいただければ幸いだ。
●第一項「サブカルであってサブカルではない」
そもそも「サブカル」とは何なのか。「サブカルチャー」と混同してしまう事が多いが、その2つには明確な違いがある。「サブカルチャー」を広辞苑で引いてみる。『サブ-カルチャー【subculture】正当・支配的な文化ではなく、若者など、その社会内で価値基準を異にする一部の集団に担われる文化。下位文化』と書かれている。ここでいう正当・支配的な文化というのは、歌舞伎や落語などの伝統芸能やクリスマスや初詣など慣習となっている文化の事を指す。それに対してサブカルチャーは漫画・アニメ・映画・小説・ゲームなど、比較的歴史の浅い文化の事を言う。しかし近年はこれらのサブカルチャーも普遍的な文化となりつつあるのも現状だ。続いて「サブカル」である。サブカルは明確な定義というものは存在しない。ということで私が考えるサブカルについて説明していこう。サブカルを一言で表すならば「物事に対する姿勢」の事を指しているのではないかと私は考えている。対象は何であっても構わない、先に挙げたサブカルチャーから人間、事件、宗教、芸能界、エロなど、その対象は幅広い。さらに一般的に無価値であるものに対して価値を見出すというのもサブカルにおいて大切な価値観である。サブカルにおいて特に重要なのは「研究(観察)対象に対して一歩引いた距離から常に批評性を持つ」という姿勢と距離感だ。これは後述する「サブカルのジレンマ」でも登場するので覚えておいて頂きたい。
●第二項「因果は巡るよ何度でも」
業(カルマ)は仏教用語で「自らの行動(行為)が将来の苦楽の結果を導く働き」の事をいう。先述したサブカルの定義に「常に批評性を持つ」とい文言があったが、この批評性という表現は言い得て妙で、表現を変えれば「冷笑する」という事である。いわゆるサブカル系の好奇心というのは悪意に満ち満ちており、露悪性と混合すると一気にその悪性が噴出する。90年代の死体ブームや悪趣味文化がまさにそれで、今年(2021年)の五輪開会式で音楽を担当していた小山田圭吾氏はサブカルというカルマに囚われてしまった良い例であろう。また「鬼畜系」や「電波系」という言葉を世に送り出し、自身もゴミを漁って個人情報を入手し、様々な媒体で発表していた村崎百郎氏が読者と名乗る男性から40か所以上も刺され殺害されたという事件もサブカルの業を語る上では外せない一例だ。かくいう私も何度もしっぺ返しを受けて痛い目を見ている。これらはサブカルという業が巡り回ってきた結果だ。対象に向けた好奇心という名の悪意はいつしか自らを刺す刃物となって戻ってくる。因果応報。サブカルというのはそういった覚悟が必要なのである。
●第三項「夢と現の境にあるサブカル」
先述したサブカルの定義の中で「一般的に無価値なもの対して価値を見出す」というのを挙げた。これもサブカルを構成する要素として重要な因子である。「一般的に無価値なもの」から面白さを見つけ出し、熱中している間は特に問題はないのだが、ふと我に返る瞬間がある。これが非常に厄介で、サブカルの面白さを誰にも共有出来ない侘しさと、無意味な事に払った時間、労力、金という現実が瞬く間に精神を蝕み、鬱状態となる。結局「無意味」はどんなに取り繕っても「無意味」なのである。サブカル界隈では有名なエピソードとして、根本敬「因果鉄道の旅」で紹介していた「しおさいの里」のとあるボランティアが発した言葉がある。しおさいの里は犬の保護施設で、最盛期は500匹を超える犬を施設長の本多忠祇氏とボランティアの数人で世話をしていた。根本氏はしおさいの里を訪れ、犬の餌箱を清掃していたボランティアにインタビューを行う。500匹の犬を数人で世話をする関係から、餌をあげるだけで長時間にわたる重労働を強いられるにも関わらず、彼はきちんと洗剤を使って餌箱を綺麗に洗っていた。一見意味の無いような事をきちんとこなす彼が「そうだよ、無駄なことなんだよ、でもやるんだよ!」という台詞を叫ぶ。これは無意味を追い続ける我々へのエールなのだ。これに救われたサブカル系は多くいる事だろう。今、こうしてサブカルについて語っている私もいつしか現へ返る事があるだろう。襲ってくる無意味という恐怖を「でもやるんだよ!」という言葉で耐え忍んでいきたい。いや、いっそのことサブカルという夢うつつな世界のまま戻ってこないのが理想なのかもしれない。
●第四項「サブカルの誘惑」
ここ2年はコロナウィルスの感染拡大によって「ソーシャルディスタンス」が推奨された事から、物理的にも
精神的にも距離というものを意識して過ごしてきた。コロナに関係無く、人間関係(コミュニケーション)において距離感はとても大切である。特に男女の間では距離感を間違えると大事になる可能性があるので、世の中の男性(私だけ?)は十二分に注意をして接している。サブカルにおいても対象との距離感というのは重要かつ必要な感覚で、女性との距離感よりもシビアなものなのである。
サブカルにおける距離というものは対象との精神的な距離の事を指す。観察対象に近づき過ぎてしまうと、対象に脚を取られてしまい、いつしか自らもその対象と同化してしまう事がある。角が立つので具体的な名称を挙げるのは控えるが、80~90年代にかけて新人類と称され、言論の世界で活躍した人物たちにおいていくつかその例となる様な発言が目立つ。私自身もサブカルからの誘惑に負けそうになる事は多々ある。例えばデパートメントHでの出来事もそうだろう。デパートメントHとは性的マイノリティーやフェチズム趣味を抱く人々が集まり、交流し、表現するイベントである。私は2015年から何回か参加しているのだが、このイベントに参加する度に「私はデパートメントHを100%楽しめていないのではないか」と感じる場面が何度もあるのだ。それは私のサブカルとしての立場が無意識に参加者やイベントそのものとの距離をとってしまうからなのである。普段の生活でさらけ出す事が出来ない趣味や性癖を共有したり、表現できるイベントにおいて、私はそんな彼らを観察することしか出来ないのだ。いっその事、彼らと同じ様にフェチズムの世界へどっぷりと浸かりたい…。そんな誘惑に心揺さぶられるのだ。
しかし19世紀の社会学者マックス・ウェーバーが「社会学の基礎概念」で語った「シーザーを理解するためにシーザーである必要はない」という言葉の意味をそのまま受け取るならば、今の立場でも本質の理解は可能とのことだが、私の目にはあの世界はあまりに魅力的かつ妖艶に映り、誘惑してくるのだ。
●第五項「サブカルのジレンマ」
今までとうとうと私が考えるサブカルについて語ってきた。最後の項として「サブカルのジレンマ」について話していこう。懸命な読者は既に気づいているかも知れないが、「サブカルのジレンマ」という言葉は「ヤマアラシのジレンマ」をもじった私の造語である。「ヤマアラシのジレンマ」とはショーペン・ハウアーが書いた寓話であり、その哲学的な話から現在では心理学的用語として一般化している。この寓話は「2匹のヤマアラシが寒い冬の日に身を寄せ合って暖を取ろうとしたところお互いの針が刺さってしまい、近寄ることが出来ず、近寄らなければ暖を取ることが出来ない」というものだ。これは先ほど述べたサブカルという立場を保つためには、対象との距離を取らなければならないという事と同義なのである。第四項でも語ったように観察対象は非常に魅惑的なのである。近寄らなければ対象を理解することは出来ないし、近寄りすぎると囚われてしまい、サブカルという概念は一瞬にして崩壊してしまう。振り子のように近づいたり離れたりを繰り返してサブカルを消費していく必要があるのだが、実はサブカルのジレンマは私の恋愛事情においても大きく関わってくる事象なのである。
現在、私はサブカルのリテラシーを有する女性を求めて婚活をしている。それは一緒にサブカルを楽しみたいというとても淡く切ない願いの為なのだが婚活を始めて数年経つものの、どうにも上手くいっていない。サブカルのジレンマに気付いたのは約2年ほど前の事だろうか。ある日、私はサブカル系の女性と付き合えたらという体でシミュレーションをしてみた。するとどうだろう、お互いサブカル系の場合、お互いに恋愛対象として近寄ろうとすると恋愛対象から観察対象へと切り替わってしまうのだ。観察対象となると当然友人以上の関係になる事は難しく、悪意のある好奇心からお互いを傷つけてしまうため、距離を取らなければならず、決して一緒になる事が出来ないのだ。
この理論は、ある日突然証明されたのだ。今年(2021年)6月に友人の紹介でゴリゴリのサブカル系女性と会った事がある。彼女はマッチングアプリを使って変わった思想を持った男性と会うのが一つの趣味として語っていた。そのサブカル的思考や行動に興味を抱いたものの、それは恋愛対象ではなく観察対象であり、逆に観察対象にされるのではないかという恐怖に疑心暗鬼に陥ってしまったのだ。それは彼女も同じ事を感じていたようで、互いに「サブカルとは付き合えない」という結論に至ってしまった。まさに「ヤマアラシのジレンマ」こと「サブカルのジレンマ」である。これらの経験から私が恋人や伴侶を作る為にはサブカルを辞めるか、相手女性にサブカルを求めないかの二者択一を迫られているものの、未だ選択出来ていない状態が続き、ただいたずらにマッチングアプリに支払う金額が私の口座から引かれている状態である。当のマッチングアプリですら、「つげ義春」や「メンタリストDaigoが好き」、「コロナはただの風邪」を検索ワードにして変わった女性を探しているので、彼女と同じことをしてしまっているのだ。31年の間にサブカルは私の身体を蝕んでいた。しかし、サブカルはその魅惑的な躯体をくねらせ、私を誘惑し続けるのだ。いつか私もサブカルに取り殺されてしまうのかもしれない。
さて、サブカルについて長々と語ってきた。前項で私は「サブカルは距離感が重要」と自慢げに話していたが、私の文章を読んで既に感じ取られている人は多くいるだろう、私はサブカルに囚われているのだ。真の意味でサブカルを語るならば、このような発言自体も批評の対象となるべきなのである。まるで禅問答や哲学の様な雰囲気が出てきたが、所詮サブカルはサブカルであり、人生や世の中にとっては全く持って無意味で虚しいものなのである。
●おわりに
最後まで稚拙な文章にお付き合いいただき、心より感謝申し上げたい。今回、今まで頭の中でバラバラになっていた「サブカル」という破片をすくい上げてなんとか一つの本にまとめてみた。するといくつかの発見があった。それはサブカルと距離感について語った第四項「サブカルの誘惑」の部分で引用したマックス・ウェーバー「社会学の基礎概念」の「シーザーを理解するためにシーザーである必要はない」という一文である。元々この言葉を知ったきっかけは2004年に公開した押井守監督作品「イノセンス」で、登場人物である荒巻課長がトグサに放った言葉である。この言葉を引用した際、距離感を重要視するあまり、本質をとらえ損ねていないか?という疑問が浮かんだ。今まではカネコアツシ「SOIL」に登場する横井という人物が、異物を理解するために異物(狂人)になるというシーンがあり、その姿勢で対象との距離を取ってきていたつもりだったが、マックス・ウェーヴァーが残した言葉は今後、私の中でサブカルに対する捉え方を見直す一つのきっかけになるかもしれない。しかしこの言葉の真意が不明なため、当該書籍を読んでしっかりと理解して自己と向き合っていきたい。
未だサブカルの真理は理解出来ていないが、昨今では端緒を掴んできている実感があり、本書のテーマとして扱ってみた。必死になって本文を書いた後、こうしてあとがきを書いてみると、この作業自体が無意味の象徴ともいうべきものであるとひしひしと感じてしまう。しかし書いている時は寝食を忘れ、仕事を放るほど楽しくて仕方ないのだ。夢の様なサブカルから現実に戻ってきた瞬間、まるで茹で上がった麺や卵を冷水に沈めるように熱が引いていく。この瞬間は嫌いではない。一歩踏み出せばそこには夫々の文化や世界があり、明確な境界があるからこそ夫々の文化にコントラストが付き、独自な世界観として発展していくのである。近年のグローバル化というのは文化を均し、均質化しているときらいがあると考えており、個人的にはあまり歓迎していない。しかし、サブカルチャーとは時代の変化と共に死んでまた生まれるものである。これも新たな文化が生まれる機会と捉えて新たに誕生するサブカルチャーをサブカル目線から眺め続けていきたい。日々是サブカルなのだ。
2021年11月某日