【書籍紹介 #23】山野一「四丁目の夕日」

●はじめに
「幸せ」という概念はなんとも不思議で捉え処がない。一言に「幸せ」と言っても、人や国、環境、歴史、政治形態、経済状況などの要因があるわけだし、金銭的に恵まれ、社会的地位を持っていたとしてもその状況を嘆く人が居れば、家を持たずその日暮らしでも人生を謳歌している人も居る。そして幸せと不幸は紙一重であり何時、幸せの絶頂から不幸のどん底まで堕ちるか分からないものだ。様々な形の幸せ。その幸せを追い求めて人は日々活動しているのだが、追求した先に得た幸せとは本当の幸せなのだろうか。もしかしたら不幸の先にあるものこそが真実の幸せなのかも知れない。今回紹介するのは山野一「四丁目の夕日」である。前回の書籍紹介で西岸良平「ミステリアン」を取り上げた際に同作者の「三丁目の夕日」についても軽く触れた。この「四丁目の夕日」とはどういった作品なのか、私目線で色々考察をしてみた。

●山野一「四丁目の夕日」について
作者である山野一は1983年にガロでデビュー、本作も1985年から1986年にかけて同誌にて連載が行われた。学が無いがため、貧乏な街の印刷屋としてその日をなんとか暮らしている別所家。そんな両親の期待に背を押されながら、大学進学へ向けて日々努力している別所たけし。このたけしが本作の主人公であり、被害者だ。たけしには恭子という彼女が居た。しかし受験勉強が疎かになってしまうため、滅多に会わないたけしに苛立った恭子と喧嘩してしまい、そのはずみでチーマーに因縁をつけられ、私刑に合ってしまう。恭子もチーマー等に襲われそうになった所をたまたま通りがかった友人の立花に救われるのだが、ここからたけしの歯車は大きく狂っていく事になる。

●執拗までの暴力・残虐描写
本作を忌避する人が本作を嫌う理由として口を揃えて言うのは、執拗なまでに繰り返される残虐描写であろう。チーマーによる事件から数日後、たけしの母親が庭先で焚き火をしていた枯れ葉の中にスプレー缶が紛れて居た結果、大爆発を起こす。幸い命に別状はなかったものの、長期の入院費用が別所家に大きな負担となってしまう。その費用を捻出するため、寝る間を惜しんで働く父親だったが、日々の重労働による披露で体勢を崩し、輪転機に巻き込まれて死亡してしまうのだが、どちらの事故も大ゴマや1ページを割いてわざわざ描写している。輪転機に巻き込まれたシーンでは、ご丁寧に擬音として「がちゃこおおん がちゃこおおん」という書き文字も添えられている。この時点で止めてしまったという人はしっかりとした倫理観を持ち、正常な判断ができたと言っていいだろう。その後もグロテスクな描写が続くのだが、あまりに荒唐無稽でまるでスプラッタ映画を見ているのと同じ感覚になってくる。しかし、「四丁目の夕日」は唯のスプラッタ漫画ではない。

●たけしが精神的に追い詰められる過程の凄み
本作の真骨頂はグロテスクな描写だけではない。精神的に追い詰められ、たけしの心が蝕まれていく過程がリアルで恐ろしい。父親の死後、母親と妹、弟の3人を養うために大学受験を諦め実家の印刷所を継ぐのだが、所詮は零細企業の素人経営。たちまち倒産してしまい、家も差し押さえられボロボロのアパートに身を寄せ合う暮らしになった。たけしは工場へ就職するものの、同僚からの執拗ないじめによってたけしの精神は壊れていくのだった。

追い詰められていくたけしは徐々に正気を保てなくなってくる。そんな時の表情たるやなんと恐ろしい事だろうか。夜な夜な下水道へ行くと持ってきたボルトを下水へ投げ捨て、その水面を眺める姿は恐怖や同情を通り越して滑稽に感じてしまうのは、きっとどう感情を表現していいか分からないからだろう。

そして運命の日、弟の誕生日をささやかに祝うたけしたちにさらなる悲劇がやってくる。滅多に食べることが出来ないカレーで食卓を囲むたけしたちの元に招かざる客がやってきた。

それは階下に住む老人で、突然たけしたちを斧で襲ってきたのだ。

ドア越しに耳を切断されたたけし、そして小気味いい調子を口ずさみながら妹と弟を惨殺してしまった。嗚呼、この世には神も仏もいないのだろうか。たけしには一握りの幸せすら掴めない運命なのだろうか。

気を失っていたたけしはむくりと起き上がると、老人と共にカレーを食べ始めたかと思えば見事に逆襲せしめ、完全に気が振れてしまったたけしは斧を片手に外へ飛び出した。

結果、罪のない市民13人を惨殺、25人に重軽傷を負わせ逮捕された。

●本当の幸せを掴んだたけし

事件後に行われた裁判の結果、たけしは病院への入院措置となった。

そして30数年後、とうとう退院を許可されたたけし。今後の生活を行う上で就職をあっせんされることになるのだが、彼は工場勤務を希望した。しかしながら配置されたのは工場の清掃員。

真面目に仕事をするたけしに一筋の光が指す。

50歳を超えて新たな人生が始まったたけしは今度こそ幸せになれるだろうか。

●四丁目の夕日のテーマについて

今回紹介した「四丁目の夕日」について、私なりに解題してみた。まずはこの漫画のテーマを一般論から考察してみると、本作は西岸良平「三丁目の夕日」に対するアンチテーゼだったり、それをネタにした悪趣味な漫画として捉えてる人が大半であろう。「三丁目の夕日」では貧しいながらも、未来に希望を持って必死に頑張れば必ず報われる。といった文脈がある。しかしそんな希望に満ちた夕日にも影が存在するのだ。三丁目に降り注ぐ夕日と、その影がおちる四丁目という対比構造だ。三丁目の人々が明日へ希望を抱きながら過ごしている裏では四丁目の人々がもがき、苦しみ、そして死んでいく。こういった陽と陰の対立構造は漫画界では古くから存在する。それは手塚治虫をはじめとする「トキワ荘」グループと、辰巳ヨシヒロやさいとうたかをなどの「劇画工房」グループだ。前者は子供たちに夢を与えるような輝かしい未来を描いているものの、後者は人間の内面にある矛盾や独善性、そしてどうにもならない現実に苦悩している人々を描いてきた。さて、今回の四丁目の夕日と三丁目の夕日を比較してみても劇画とトキワ荘という対立構造が見て取れるだろう。本作が露悪趣味的な作品である事は間違いないが、三丁目の夕日と対比するとその作品性の深みに気付くことが出来る事だろう。

次に私個人の見解だ。本作、四丁目の夕日はズバリ「幸せ」を描いた作品である。

冒頭でも触れたが、幸せほど相対的で曖昧な概念はない。たけしは貧乏から脱出するために大学入学を目指して頑張るものの、あれよあれよと道を踏み外し、とうとう人を殺めてしまう結果となった。30年におよぶ入院からやっと退院しても身寄りは無く、希望した工場勤務も実現しなかった。しかし病院のあっせんで紹介された清掃員の仕事で同僚の信ちゃんに惚れられた。

それまでたけしの半生を見てきた読者にはなんてことはない出来事かもしれない、いやむしろこれも不幸として捉えてしまうかもしれない。否、これが彼に与えられた救いであり幸せなのだ。

幸せは相対的である。

読者の私たちにとってはどんなに小さい幸せであっても、どん底まで落ち切ったたけしにはきっと暗闇だった人生における一筋の希望の光なのだ。

私はそう信じたい。

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