今回の上映会作品として選出した「ヲタクに恋は難しい」の原作漫画は、2015年に連載が開始し、2020年に全11巻で完結した累計1200万部を超えるヒット作品だ。映画化にあたって監督は「勇者ヨシヒコ」でも知られる福田雄一監督。主演は高畑充希、山崎賢人である。あらすじはAmazon Prime Videoを参照いただきたい。また2/26時点の評価は1192件中、3点(5点満点)となっている。
この度、本作を上映会作品として選出した理由の一つに「おたく」という名称に対する世代間の認識の違いが如実にあるという事だ。
私の印象としては年齢が高いほど「おたく」に対して「一部のジャンル(モノ)に特化した異常な知識を持つ」、「知識に対するストイックな人種」という評価の一方、「ネクラ」で「偏執的」、「ロリコン」というステータス的側面とレッテルという相反する評価が目立つ。特に「おたくカルチャー」に身を投じている人間ほど、おたくのストイックさに畏怖を抱く傾向がある。では、若い世代ではどういった印象を抱いているのだろうか。20代の若者数人にヒアリングを実施してみた。するとレッテルという印象は薄く、1ジャンル(モノ)特化型から、「より広く、より多くの知識を持つ人」という認識のようだ。詳しくは後述するが、おたく=ロリコンという印象もそこまで抱いている様子は伺えず、時代の流れとともに認識が変化するという事を肌で感じることが出来た。
それでは「おたく」は何時、何処で生まれ成長し、そして変質していったのか。その足跡を辿ることは80年代以降のサブカルチャーを考察する上で非常に重要なポイントになるのではないかと私は考えている。今回は「おたく」の内面よりも外からのイメージに焦点を合わせて思索を巡らせてみた。
・「おたく」という名称
そもそもおたくは何処でうまれたのであろうか。これは諸説あるのだ。中でも有力視されているのが83年に漫画ぶりっこ誌上で掲載された中森明夫氏によるコラムである。このコラムの中で彼はコミックマーケットに集まった人たちがお互いのことを「お宅は~」と呼び合っている事を揶揄して、彼らを「おたく」と総称したと言われている。それがおたく界隈で使用されるようになり、時間経過とともに一般化することで認知されるようになった。それでは何故彼らは「お宅」という他人行儀な二人称をコミュニケーションの中に取り入れたのだろうか。その答えは中森明夫氏が誌面で「おたく」と名付ける30年近く前の1955年まで遡る。戦後の傷が徐々に癒え始めたこの年、東京都豊島区にある一軒のアパートにおいてある組織が結成された。それが「新漫画党」である。そう、当時トキワ荘に居を構えていた「藤子不二雄」や「寺田ヒロオ」などがメンバーとなって結成した漫画家達の互助会である。藤子不二雄A(我孫子)を中心に彼らはお互いを「◯◯氏」と敬称を付けて呼び合っていた。これが80年代頃の「おたく」たちが互いを「お宅は~」と呼びあったルーツであると思われる。では何故、彼らはそう呼びあったのであろうか。それは想像するに彼らの独特な距離感が関係しているのではないだろうか。「〇〇氏」と「お宅」。どちらも少し距離を感じないだろうか。新漫画党を始め、当時の漫画家は地方から上京してきた人たちが多く、年齢層もバラバラである。戦後まもないあの頃、まだ封建的な風習が色濃く残っていた時代に漫画家という新しい文化の同志でありながらも、年齢差によって微妙な関係が生まれたために「〇〇氏」と呼び始めたのではないだろうか。それと比較すると「おたく」達は30年違い年月の中で変革してきた社会の影響か「〇〇氏」よりも親しげな「お宅は~」という呼び方に落ち着いたのだろう。それでもまだ他人行儀感は否めないものの、好事家同士の距離感とは本来このくらいが丁度いいのかも知れない。
・コミックマーケットの誕生
さて、69年に東大安田講堂で学生運動がピークを迎えつつも未だに過激な政治家活動が活発だった1975年。現在も続くとあるイベントが産声を上げた。読者諸君らも行ったことはあるだろう。そう、コミックマーケット(コミケ)だ。コミケが開催されて間もない頃は現在とは趣が大きく異なっていたのはご存知だろうか。現在では男性向け同人誌、いわゆる男性向けのエロ同人誌が幅を効かせているコミケだが、当時は男性同士の恋愛を描いた「やおい本」が大半を占めていた。そんな「やおい本」を駆逐するために立ち上がったのは「吾妻ひでお」を始めとするロリコン作家達だ。彼らは79年に黒一色の装丁をしたロリコン同人誌「シベール」を創刊。折しもロリコンブームと相成って、その後のコミケは男性おたくの聖地となっていき、それを先に述べた中森明夫がコラム上で「おたく」と称したのだ。
・呼び方の変遷
それでは「おたく」はそれまでなんと呼ばれていたのだろうか。これはあくまで私見だが、70年代までは「マニア」と呼ばれていた。そもそも「おたくカルチャー」の素地となった「漫画」や「アニメ」は60年代ではまだ子供の読み物という扱いだったわけだ。戦後生まれの少年たちが漫画やアニメに触れ、生まれたばかりの新しいメディアがカウンターカルチャーとなり、若者たちの間に浸透していった。70年には当時週刊少年マガジンで連載されていた「あしたのジョー」に登場する力石徹の葬式を寺山修司が企画したり、76年に公開された「宇宙戦艦ヤマト」の映画を観るために前日から並ぶ若者たちを怪訝な目でみている大人という構図だった。彼は自らを「〇〇マニア」と呼び、世間との一線を画してきた。この頃はまだまだ母数は少なかったので目立つこと無く地下に潜っていたのだが、こういった「マニア」もとい「おたく」が好む趣味はというのは終わりがない。よって人口は増え続けていくことになる。
・戦後サブカルチャーの普及
日本におけるカウンターカルチャーは漫画・アニメとして噴出したのだ。特に漫画においてその傾向は顕著である。手塚治虫を始めとするトキワ荘組が描くような輝かしい未来に対して社会の底辺をあがく人間たちの人間模様や反権力を謳った作品として「劇画」というジャンルが生まれた。先述した「あしたのジョー」は主人公である「矢吹丈」はある日突然、ドヤ街に現れ、そこで出会った丹下段平によって才を見出され、拳闘(ボクシング)を始めるという話だ。常に一匹狼で権力を嫌う姿勢にシンパシーを感じたのか、70年に発生した連合赤軍による「よど号ハイジャック事件」で彼らは自らを「我々はあしたのジョーである」と宣言したのだ。時代の流れとともにサブカルチャーは影響を与え続け、新しい価値観を生み出していった。
・宮崎勤事件という転換点
そしてそれが飽和した89年。戦後サブカルチャーとおたくに大きな転換点となる事件が発生する。それは「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」いわゆる「宮崎勤事件」だ。事件内容が明るみ出ると凄惨な内容と犯行声明がされ劇場型犯罪として報道去れたことから世間の注目を浴びるようになった。こういった事件が発生するとマスコミをはじめ市民は「何故犯行に及んだのか」という動機を追求する。こういった事件にこれと言った思想なんてものはないのだが、人は未知なことに対して異常なほどの恐怖を抱く生物だ。そして自らが理解に及ばない凄惨な犯行を行う理由を求め、精神の安定を求め、都合の良いレッテルを無意識のうちに貼ってしまうものである。週刊誌に宮崎勤の自宅の写真が掲載された。そこには高く積まれたVHSビデオテープの山が映されていた。大量のビデオテープの中にあった年端の行かない少女が映されたものや、殺人を模した行為を描いた映像作品が取り沙汰され、元々奇妙な存在として見られていたおたくが、「異常な執着心を抱く人種=おたく」という図式が出来上がってしまった瞬間である。こういった風潮は折しも80年代に発生した「ロリコンブーム」が悪印象の背中を押してしまい、「ロリコン=おたく=気持ち悪い」という印象が確立した。
90年代に入るとヴィジュアル面についてもおたくの印象が固定することになる。そのきっかけとなったのは90年頃からライターやタレント活動を始めた「宅八郎」であろう。彼は先述した宮崎勤事件をきっかけにおたくに興味を持ち、「おたく評論家 宅八郎」と名乗ったのが始まりである。彼は長髪にメガネ、チェック柄のシャツをチノパンに入れ、リュックを背負うという、今で言えば古典的なおたく像を生み出し、執筆の傍ら数々のテレビ番組に出演することでおたくをヴィジュアル面から印象づける事に成功したのだ。
・電車男の功罪
こういった背景から世間のおたくに対するイメージは完全に固着してしまい、そのイメージが大きく転換するには20年近くの月日を要することになるのだ。時代は下り2004年、匿名掲示板「2ちゃんねる」において「独身男性板」内に建てられた「男達が後ろから撃たれるスレ」にある男性が投稿した内容に火が付き、大きなムーヴメントを起こすことになる。それがいわゆる「電車男」である。「電車男」スレの人気は2ちゃんねるを飛び越えて書籍化や映画化、そしてドラマ化することでインターネットカルチャーやおたくカルチャーをエンターテイメントとして描き、最高視聴率21.2%を記録するほど人気を博した。
00年代はインターネットの普及によって、先に述べた匿名掲示板「2ちゃんねる」や掲示板に書き込まれた内容を分かりやすくまとめた「まとめサイト」の登場、ニコニコ動画の誕生、mixiやTwitterなどのSNSの登場によって多くの人々が手軽にインターネットカルチャーに触れる機会が増えてきた。するといままで未知だった「おたく」の世界の断片と触れることで、おたくへの敷居が低くなっていき、自らを「おたく」と呼ぶ人が出る始末である。
宮崎勤事件から約30年の間に、それまでのレッテルとしての「おたく」からファッションとしての「おたく」に変質しつつあり、そもそも「おたく」という言葉から「推し」や「推し活」などの言葉に置き換わりつつあるのだ(細かいことを言えば意味合いは少し異なるのだが)。
今回の上映会を通して「おたく」の認識が世代間でどう違うのかを含めて議論していきたい。