この文章を書いているのは鬼怒川の旅館である。まとまったやすみが出来たのと、心身ともに限界を迎えてしまったため、湯治にきたのだ。

旅行は日常からの逃避である。生活圏から離れることで日常の枷から心身を解放する行為である。
かのつげ義春氏も旅行好きであったのは有名な話しで、旅を

題材にした作品群をファンの間では「旅もの」として区分する。実際、「旅もの」の作品から選書した書籍や、氏のエッセイ集なども刊行されている。

さて、今回の本題であるがつげ義春氏のエロチシズムについて考察してみた。つげ義春は一般的に文学的という評価が先行しているが、私は作中に出てくる濡れ場がとてもお気にいりなのである。いつか彼女や伴侶が出来た時はつげ義春プレイをしたいと常々考えしまうのだ。

しかしながら私の性癖と氏が描く濡れ場シーンは全くと言って良いほど合致しないのだ。なのに私の心をくすぐるのは何故なのだろうか。

そこで数ある濡れ場シーンからいくつかピックアップして、氏が描くエロについて考察していこう。

①ねじ式「ではお医者さんごっこをしましょう」
ねじ式。言わずとも知れたつげ義春氏の作品のなかで最も有名で、最も不条理で、最も評論しづらい作品であろう。1968年にガロで本作が発表されると漫画評論家のみならず、文学の評論家まで出張って上を下へのお大騒ぎ。あれやこれやとこねくりまわして解題を試みるも、どれもこれも的を得ず。
そんな騒ぎを知ってか知らずか、つげ義春氏は「ただ見た夢を締め切りが近いから描いただけ。」という始末。評論家は赤っ恥と相成り顔も真っ赤か。

夢が無意識と密接な関係があることを主張したのは精神分析額の粗、フロイト博士である。博士は無意識にある願望や欲求が夢という形で現れると説いた。では「夢を描いた」といったねじ式は何を表しているのだろうか。

ねじ式はメメクラゲに噛まれた青年がシリツ(手術)してくれる医者を求め荒唐無稽な村を行ったり来たりする筋である。青年は母親と思わしき人物が経営している金太郎飴の製造工場の上階にある産婦人科人へシリツを求めて歩を進めると、眼前に現れたるは女医。

当然ながら産婦人科は外科シリツを断るものの、青年は激しく求める。すると観念した女医は「では、お医者さんごっこをしましょう」といい、卑しい笑みをさせながら白衣を脱いだのだ。布団の中でくんぐほぐれつ乱れ合う。布団の隙間から伸びる腕にはスパナが握られている。結局、女医は○✕方式を応用してシリツしたのだ。彼の腕にはコックが取り付けられ、それを締めると腕がしびれるようになった。

「お医者さんごっこ」は1968年当時においてもセックスの暗喩であったりイメージプレイとして認知されていたというのが驚きである。時代は大きく下るが1983年にエニックスから発売された「マイ・ロリータ」を端に発し、2002年には「はじめてのいお医者さん」が発売され、エロのいちジャンルとして医者プレイが確立した。こういったプレイは医者と患者の関係性というのは重要な点であろう。患者にとって医者は救世主であるわけで、立場は常に医者が優位なのである。もし機嫌を損ねて毒を盛られても、手術中に意図してミスを犯されても患者はされるがままなのである。例え疑似であっても優位性を得るとというのは人間が持つ根元的な会館である訳で、これがエロと結び付くのは当然の事なのだ。

②沼 「いっそ死んでしまいたいほどいい気持ちや」
鳥狩りをしていた青年がふと出会った少女。不思議な魅力で青年は少女に興味を抱く。その日は少女の家に泊まることになり、部屋でもてなされてるとひとつの鳥かごを見つける。しかしそこには鳥はおらず、代わりに居たのは蛇であった。ギョっとした青年に少女は「その蛇は噛まない」と嗜める。しかし夜な夜な寝静まった少女の首を締めに来ると語り、「いっそ死んでしまいほどいい気持ちや」と呟く。

その晩、寝静まった頃合いに先程の会話で魔が差した青年は少女の首を締める。少女の口から苦しさではなく、快楽による吐息が漏れる。ふと我に返り手を離して床に着く。

首締め。これは気道を締めるのではなく、頸動脈を締めることによって脳への血流を制限したるは疑似失神を実現する方法である。人は失神する瞬間、身体中に快楽が走ると伝え聞いたことがある。ドアノブにタオルを引っ掻け、首を締めながら自慰を行ったハリウッド男優は事切れた姿で発見された事件も記憶に新しいし、友人も頸動脈を締めて快楽を得てるという話を聞いたことがあった(自慰を伴うかは不明)。ドラマ「愛の流刑地」でも性交の最中に首を締めて欲しいと懇願した女は絶頂と共に絶命してしまった。首締めはエロなのだ。

③ゲンセンカン主人 「へやで…」
本作は最も陰鬱で最も不条理な作品であろう。これを解題するのは無理な話で、愚かともいえよう。我々は作品にひれ伏すほかない。主人公が朽ちかけている集落へ訪れた。そこは子供や若者の姿はなく、婆しか見かけん。婆も子供がえりして駄菓子を漁る始末。駄菓子屋にたむろっていた婆と離していると主人公がゲンセンカンの主人と瓜二つであると言う。ゲンセンカンの主人もふらっとやってきてはゲンセンカンに泊まり、そこの女主人と出来たとうのだ。彼は混浴を嫌がる純朴な反面、裸で拝んでいる女主人をみると劣情沸き上がり、暴力をもって女主人を犯そうとする。女主人もまんざらではない様子で鏡に「へやで…」と残し去っていった。
白粉を振りながら自室で男を待つ女主人。そこにやってくるは天狗面をつけた男。

元来、性と暴力は同質である。雄は子孫を残すために雌に子種を残さなければならない。それを暴力によって言い聞かせ、子種を残させるのだ。純朴な人間であれ、つまるところは動物。相手が自分より劣ることを知ると、力で伏せて子種を植え付けるのだ。

おすすめの記事