【書籍紹介 #19】古谷実「グリーンヒル」について語ろうか。

名作。あらゆる創作物で優秀な作品についてつけられる名称である。

良い作品は受け手側の成長や変化によって捉え方が変わってくる。
そういった作品は重層的で深みのある作品が多く、反芻すればするほど味が出てくる。初めて読んだ時はピンとこなくて読み飛ばしていても、改めて読むと新たな気付きがあり、それまでつながらなかった点と点が結びつく瞬間、ドッと脳内麻薬が分泌され、私は多幸感に包まれるのだ。

特に年齢を重ねる毎にそういった現象をよく体験している。その一例として私が良く話題に挙げるのが、岩明均「寄生獣」である。親の本棚にあったのを読んだのがファーストコンタクトで、小学生の頃である。早熟というかなんというか…。
当時は物語の読解力なんてあるわけもないので、当然ちんぷんかんぷんだったものの、子供心になにか引っかかる物があったのだろう。改めて読み返したのは中学生の事である。中学生は寄生獣の物語性や善悪の2元論では語れない複雑なテーマを読み解くというよりも、異形のビジュアルやカニバリズム的なグロテクス描写に心踊らせており、全くもって本質たるものを見抜いていなかった。いや、見抜こうとも思っていなかったのだ。そして高校生の頃に読み返すと、やっとテーマの端緒を捉えることが出来、この漫画がただのグロテクスを主としたものではなく、人間または生物としての根幹を描く、とんでもない作品ということに気づき始めた。そういった作品は積極的に子供の時分に読ませるべきだと思う。寄生獣に限らず、火の鳥や(ある意味でははだしのゲン)などもそういった作品として挙げても良いだろう。

そろそろ本題に移るが、今回紹介する作品は読者の成長と共に理解が深まる漫画ではあるが、対象とする層は高校生以降を個人的に推奨する。その作品は90年代、中高生で大ヒットとなったギャグ漫画「行け!稲中卓球部」の作者「古谷実」が「僕といっしょ」の次に発表した「グリーンヒル」という作品である。古谷実作品は近年立て続けに映画化している関係で、映像作品を触れたという人もいるだろう。園子温の「ヒミズ」や吉田恵輔の「ヒメアノ~ル」など、どちらも本作「グリーンヒル」以降の後期古谷作品というのが注目されたい。本作の次に発表されたのが「ヒミズ」であり、これまでのギャグ路線から大きく路線変更をしたリアルサスペンス作品となっている。「ヒミズ」以降は随所にギャグは散りばめられているものの、サスペンスやシリアスな作風が続いている。これらの作品はまた追って紹介していきたい。

・グリーンヒルについて
さて、今回話題の中心として挙げたい「グリーンヒル」という作品について簡単に説明していこう。、グリーンヒルは1999年から2000年にかけて週刊ヤングマガジンで連載された作品で単行本は全3巻となる。作品のテイストは稲中卓球部から続くギャグ路線ではなるものの、軸足はギャグ一辺倒ではない事が特徴である。次はストーリーを紹介していこう。主人公である関口は、暇を弄ぶ大学生。何も目標も無く、ただただ無意味に時間を浪費していた。そんなある日、ファミレスでボケーッとしていた関口の前に颯爽を現れたボインちゃんがいる。その女性は「みどり」といい、彼女が羽織っていたジャケットの背中には「GREEN HILL」という文字があった。彼女に一目惚れした関口は「GREEN HILL」を頼りに探そうとするのだが、大学の悪友がパシリに使っていた「しのびだ」が来ていたTシャツに「GREEN HILL」の文字を見つけた関口は、持ってもいない、ましては好きでも無いバイクを好きだと言い張り、チームへの入会を希望するのだった。チームがたむろしているファミレスへしのびだが関口を連れて行くと、目の前に現れたのはロカビリー風な出で立ちのリーダーだった。

・ギャグからシリアス路線への過渡期
本作は一見、駄目な大人たちが繰り広げるギャグ漫画の様に見える。それは特に高校や大学、ひいては新卒くらいまではそう読めるだろうし、そう読んでしまっても仕方がない。
実際、私もそれまで同じ読み方をしていた。ギャグ漫画として読むと本作はそれまでの稲中や僕といっしょに比べればちょっとパンチが弱い。しかし、頭の中で反芻していく毎にギャグ漫画の枠には収まらないテーマが隠されていることに気づくようになるのだ。

・大人と若者の対比
本作、グリーンヒル以降は日常に潜む恐怖などをテーマに描くようになってきた。それまでの破戒的なギャグテイストとは大きく路線変更をしたため、離れてしまったファンも少なくないだろう。しかし、思い返してみると僕といっしょでは割とシリアスな展開は少なくないし、稲中の最終話もほんのりと悲しい雰囲気で幕を閉じていたりする。本作においてもギャグの裏では、駄目なあ大人たちの人生観や叫び、諦め等が随所で描かれており、まだアイデンティティを確立せず、モラトリアムな期間をグダグダと過ごす主人公と対比しているのだ。

よって本作を読む年齢によってフォーカスする部分や視点が変化することによって、ただのギャグ漫画から、人生観を含む大きなテーマを含んだ重層的な作品へと変貌するのだ。

若い時分であれば主人公の視点から物語を読むことになるだろう(そもそもそういう風に構成されている)。当然、駄目な大人たちがあーだこーだ醜態を晒しているシーンを見れば面白い。32才独身、ハゲでデブで意気地なし。それでいて卑屈でうんこも漏らすリーダーが滅茶苦茶になる姿は滑稽の一言であろう。伊藤にしてもそうだろう。アルバイト店員と浮気をした末、妻から金玉を両肘に移植されそうになるのだから。

リーダーの変装をして夜な夜な痴漢を繰り返す中学校の教頭だって、教師という立場がありながら痴漢を繰り返し、リーダーに捕まったあげく娘と結婚させろと強請られる。

29才コンビニ店員は「今の僕は僕じゃない」と信じ、不細工でなんの取り柄もない自分を認められず整形費用を稼いでいる。しかし、リーダーとの出会いで今の自分が自分であり、どうしようもないという事を諭されるが、結局は傷のなめあいだった。

関口が道端で会ったセーラー服を着たおじさんは「セーラー服を着ているから誰に迷惑をかけた」と熱弁し、関口を圧倒するもその姿を部下に目撃され、その場を離れようとするおじさんを引き止めた部下を殴ってまで逃げていった。

どれも関口の視点から読めば、全てがギャグテイストに描かれているため、声を上げて笑ってしまうシーンである。しかし、笑われている側の駄目な大人たちの視点から見てみると非常に人間臭く、哀愁を感じる良いシーンに見えてくるのだ。彼らと共通する駄目な部分や、我慢しているコト、諦めているコト。彼らの叫びや行動がただのギャグではなく、共感してしまうようになってくる。すると何も考えずに笑えなくなってしまうが、駄目な大人達の魅力に深みが増し、そんな大人たちと過ごした結果、関口の人生観に影響を与え、最後のシーンの理解へつながるのだ。

・ラストシーン解題
5年後、チームメンバーはどうなるのだろうか。悲惨な未来を予言したリーダーだった。結局は関口に返り討ちにあってしまうのだが、関口は心の片隅に将来への不安を抱えていたのだった。それまで生きるも死ぬもしない生活を送っていた関口だったが、「GREEN HILL」を通じて、多くの大人たちと触れ合う事で彼の人生観にちょっとした変化が生まれてきたのだ。メンバーの横田ちゃんと付き合う事も出来たし、セックスも出来たが、将来自分は駄目な大人の一員になってしまうのだろうかと不安がよぎったのだろうか、横田を置いて公園へと出かけてしまう。そこのベンチに横になり「人類最大の的”めんどうくさい”に打ち勝って立派な大人にならなきゃな~」という台詞で締められている。

この「めんどうくさい」というのが本当に厄介で、歳を重ねるごとにしがらみや金、時間、体力、気力などなど余計な事を考えて、全てが億劫になってしまうのだ。万能感にあふれていた若い頃に比べると新しいことへの挑戦力というのは落ちてきていると感じる事が増えてきた。関口は社会へ出ることや彼女との将来に対してぼんやりとした不安を抱いたが故の発言なのだろう。表情などからはまだ切羽詰まっている感じがしないのがまたリアルで良い。

このシーンを初めて読んだ中学生時代、当時はまだまだ社会的に守られる立場であったためこのシーンになんら意味を見出すことが出来なかった。しかしリーダーと同じ32才を目の前にしてかつて関口だった自分は、リーダーや他の大人たちの立場へと変わってしまった。そんな今、グリーンヒル読むと心に響きすぎてしまうのだ。

古谷実がグリーンヒルを描いたのは27才。彼も関口の立場から一歩踏み出さなければならない時期だったからこそ、この作品が生まれたのではないだろうか。

今後、40才を手前にした時、グリーンヒルを改めて読んでみたらまた新しい発見があるかも知れない。だから私は歳を取るのは嫌いじゃないのだ。

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