【書籍紹介 #16】根本敬「因果鉄道の旅」 ~人間観察は人間愛か醜悪か~
根本敬「因果鉄道の旅」1993年

人間観察。

電車や人との待ち合わせ中に見かけるちょっと変わった人や友人や家族などなど、自分と違った価値観や行動、服装をしている人に焦点を当てて観察することを指すが、読者諸君は人間観察をした経験はあるだろうか。

私は20代後半になるまで意識しなかったのだが、珍スポットや変態イベントへ参加する理由の一つに自分にない価値観を持った人と会話をする楽しさと、抑圧された人間が開放された時の表情や態度を見るのが好きという事に気づき、それが人間観察への繋がっている事に気づいた。

今回は根本敬「因果鉄道の旅」を基に人間観察の魅力と醜悪をご紹介できればと思う。

著者である根本敬は特殊漫画家として長年サブカル界隈で活躍し今年画業50年を迎えた。本作は根本の代表作の一つで、彼がライフワークとして観察してきた人々の事が書かれている。

本書に登場する対象者は同級生の内田を始め、韓国で出会った尹さん、チャネラーで歌手のサバヒゲ、しおさいの里の代表本多といったところだ。

所謂サブカル界隈では「内田研究」と「しおさいの里」については有名なエピソードであるので、こういうジャンルが好きであれば是非一読いただきたい。

「人間観察の魅力」

そもそも人間観察の何が面白いのか。それは自分と(善も悪も含めて)違う価値観を感じられる事にあると思う。人間の数だけそれぞれの人生と経験をしてきて、自分と違う考え方や発想は星の数だけある。それが突飛な行動や見た目をしている人ならなおの事、何か面白い事をしてくれるのではないだろうかという期待がある。

「因果鉄道の旅」でも変わった人達が多く登場する。中でも根本が人間観察をライフワークにさせたきっかけとして大学の同級生「内田剛史」に関する研究、所謂「内田研究」は、人間観察の魅力とその業というものの端緒を捉えられる良い例だろう。

研究対象となった内田剛史は熊本出身で、幼い頃から甘やかされて育てられてきた。結果、強いものにはこびへつらったり虚勢を張ったりするが、弱い相手に対して非常に増長する性格となってしまった。

東京の大学へ進学することをきっかけに、熊本の実家を出て下宿することになるのだが、内田はそこで騒動を引き起こすことになる。

下宿のすぐそばにある大衆食堂「ながしま食堂」の40代の女主人「きよみ」と情交を重ね、実質店とその家族を支配下に置いてしまうのだった。店も満足に開けず、一日中きよみとセックスするものだから、常連の足は遠のきす経営はなりゆかなくなる。さらに内田はきよみに対して激しい暴力を加えるのだった。

暴力に耐えかねたきよみはとうとう内田に内緒で2度ほど逃げ出すのだが、そのたびに内田はきよみが逃げた先を探し当てて連れ戻してしまう。

内田の行動は完全に家庭内暴力やマインドコントロールに近い。この行為に対して興味を持った根本をはじめとする研究会メンバーは内田の部屋に侵入しては様々な資料を採取し、ミニコミ誌で成果を発表していったのだった。

本書に書かれていた内田の行動をかいつまんで説明してみたが、あまりに非現実的すぎて創作なのではと思ってしまうほど悲惨な内容だ。まるでニュースのドキュメンタリーや映画を見ている感覚さえも抱く。

根本らも現実に目の前で起きている事象を絶妙(?)な距離感で何かの映画やドキュメンタリー番組を見ている感覚だったのだろう。「こいつ(内田)の側に居れば何か面白い事があるはずだ」という考えがあったい違いない。人間観察の魅力とはテレビなどでは味わえないスリリングな人間模様や事件を眼前で見て、体験できる行為とも言えるのかもしれない。

「人間観察における距離感の重要性」

さて、人間観察において非常に大切なことはズバリ「距離感」だ。観察対象に対してどこに一線を置くかでものの見方が大きく変わってくる。

根本らが行っていた「内田研究」ではしばしばその一線を越えてしまっている。先述した内田の下宿に侵入して手紙などを採取する行為や、内田がきよみが逃げた先を突き止め、連れ出すために車を出したりなど。さらに、内田がきよみに暴力を振るっているという噂を耳にしたならば本来は注意したりするのが人の道というべきだろう。

観察対象に対して過干渉してしまえば自分が当事者の一人になってしまい、距離を置いてしまうと物事のディティールがぼやけてしまう。この距離感というのは人間観察という行為において非常に重要なのだ。

「虎穴に入らずんば虎子を得ず」ということわざがある。物事の深淵を覗くためには自ら深淵に近づかなければならない。カネコアツシ「SOIL」という作品では「異物を理解するには自ら異物にならなければならない」といったセリフがあり(※詳細要確認)、ある街で発生した不可解な事件を追うため、自ら異物となるために奇怪な行動を起こすのだが、見てくれがそのまま根本敬なのはこの発言が根本の活動と関連がないとは言い切れないだろう。

カネコアツシ「SOIL」

また古谷実「グリーンヒル」でも主人公が「常識という柵の中でぬくぬく過ごしているヤツより、柵の外で自由に走り回っているヤツになりたいが、策を出る勇気がない」といった発言をしている(※詳細要確認)。

古谷実「グリーンヒル」

「無意味という価値」

話題を「因果鉄道の旅に」戻そう。本書ではサブカル界隈では有名なセリフが登場する「しおさいの里」も紹介されている。「しおさいの里」は千葉県の山奥にかつてあった捨て犬の保護施設だ。施設長の本多忠祇とボランティアの数人で500匹を超える犬の世話をしており、当初はマスコミからも好意的な報道がされていたものの、ずさんな飼育環境を取り沙汰されてしまう事になる。根本はしおさいの里を訪れ、犬の餌箱を清掃していたボランティアにインタビューを行う。500匹の犬を数人で世話をする関係から、餌をあげるだけで長時間にわたる重労働を強いられるにも関わらず、彼はきちんと洗剤を使って餌箱を綺麗に洗っていた。その事に対してかの有名な「そうだよ無駄なことなんだよ、でもやるんだよ!」という台詞を響かせたのだった。

余談だが「サブカル」という趣味というのはこの世の中に全く持って良い影響を与えず、生産性も全くない意味のない趣味だ。人々は「意味が無い」と一蹴してしまう事柄に対して意味を見つけて楽しむ(ほくそ笑む)という行為が所謂「サブカル」の一端である。

一応、「サブカル糞野郎」を自称していて、誰が読んでるのか分からないブログを運営している私も無意味に意味を見出してしまった業の深い人間なのだが、こういう趣味を続けているとある日突然「なんでこんな意味の無い事に時間と金を割いているんだろう」と我に返る?悩む?瞬間が年に2~3回ある。そんな時は「でもやるんだよ!」という台詞を口ずさんで正気(?)を保つのだ。熱心な読者ならこの気持ちを理解してくれるだろう。

ー閑話休題

しおさいの里の施設長、本多忠祇はなかなか自らの立ち位置というものを理解している男で、インタビューの中で根本がボランティアの人たちがあんな重労働をする理由は何かと尋ねた所、興味深い回答があった。

「でも、あの人たちも何も求めてないと云ったら嘘になるでしょう。(中略)今、私の周りって何か起こりそうでしょ。(中略)『本多についていけば何かがある』って皆、思いますよ」

そう、ボランティアが必死になって重労働をしていたのは内田研究の項でも述べた「内田の側に居れば何かが起きる」という人間観察の為だったのだ。観察対象となっている本多はその本質を見抜いていたというのが驚きだ。人間観察とは本来、対象にそれを悟られるのはご法度なのだが流石というべきだろう。

「人間観察の醜悪と業」

最後に人間観察の質の悪さというのに触れていこう。

「人間観察は人間愛か醜悪か」というタイトルを付けたが、人間観察というのは基本的に「醜悪」である。そこには人間愛などなく悪意のある好奇心なのだ。人間観察において観察対象の突飛な主義主張や行動に対して否定することはご法度である。否定をすると一気に対象は心を閉ざしてしまう。しかし肯定しすぎるのも危険だ。危険な思想等を増長させてしまい、その後の行動や活動がさらに活発となって近隣に迷惑や事件・事故を引き起こしてしまう恐れがあるからだ。

また、対象に向けられて好奇心というのは悪意に満ち満ちていることを自覚すべきだろう。誤解を恐れずに言えば、人間観察における好奇心というのは動物園や水族館で動物を観察するのと同じ行為だと私は思う。相手に悟られないうちは問題ないが、もしそれに気づかれてしまったならばそれまでの関係が全て崩れてしまうし、最悪な事が起きてしまう可能性がある。人間観察という業を背負っていくには相当の覚悟がなければならないのだ。

「サブカル」とは物事に対する姿勢という風に私は理解している。常に物事に対して批評的であるという姿勢がサブカルであり、その対象はサブカルチャーのみならず、今回紹介した人間であったり、事件であったりもする。そこには何も生産的な事は無く、ただただ無意味を追い続けていかなければならないのだ。

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